テレビのワイドショーや報道番組を見ていると、ある違和感を覚えることがある。
それは、番組が複数の立場や見解を公平に紹介するというよりも、あらかじめ望まれた結論があり、その結論に沿う形で専門家やコメンテーターが配置されているように見える点だ。
一方の主張は丁寧に紹介されるが、他方の主張はほとんど触れられないか、あるいは反論のための材料としてのみ扱われる。その結果、視聴者は「多様な意見を知る」よりも、「番組が用意した物語を追体験する」ことになる。
この構造こそが、今日メディアが信頼されなくなっている大きな理由の一つではないだろうか。
問題は「嘘」ではなく「構造」にある
ここで重要なのは、この問題を
「テレビは嘘をついている」
「マスコミは悪意を持っている」
といった単純な善悪の話にしないことだ。
ワイドショー型の報道が抱える問題は、個々の発言の正誤ではなく、番組の構造そのものにある。
番組には限られた放送時間があり、視聴率を意識せざるを得ない。
そのため、
- 複雑な前提条件
- 判断が分かれる論点
- 結論が一つに定まらない不確実性
といったものは扱いにくい。
結果として、
「分かりやすい対立構造」
「善悪が明確な物語」
「感情的に共感しやすい結論」
が優先される。
この時点で、報道は「事実の整理」から「物語の構築」へと性質を変えてしまう。
専門家は、なぜ「台本の一部」に見えるのか
本来、専門家とは、
- 知見の限界を理解している存在であり
- 条件が変われば結論が変わることを前提に話す存在
であるはずだ。
しかしワイドショーの文脈では、専門家はしばしば、
- 結論を補強するための権威
- 視聴者を納得させるための装置
として扱われる。
専門家が語る「慎重な留保」や「場合分け」は編集によって削ぎ落とされ、
番組が求める方向性に沿った発言だけが強調される。
その結果、視聴者には、
専門家が自分の立場を自由に語っているのではなく、
番組の結論を代弁している
ように映ってしまう。
これは、専門家個人の倫理の問題というよりも、専門知が番組フォーマットに適合させられていることによって生じる歪みである。
なぜ視聴者は「操作されている」と感じるのか
視聴者は、必ずしも高度なメディア理論を知っているわけではない。
しかし、次のような感覚には非常に敏感だ。
- 都合の悪い話が出てこない
- 反対意見が極端な形でしか提示されない
- 結論に向かって話が一直線に進んでいく
このとき視聴者は無意識に、
この番組は、
私に考えさせたいのではなく、
「そう思わせたい」のではないか
と感じる。
情報が「説明」ではなく「誘導」に見えた瞬間、
メディアへの信頼は急速に失われる。
メディア論的に見た「偏向」の正体
一般に「偏向報道」と呼ばれるものは、
必ずしも特定の思想を持つこと自体を意味しない。
むしろ問題なのは、
- どの情報を取り上げ
- どの順番で提示し
- どの枠組みで解釈させるか
という「フレーミング(枠付け)」の問題だ。
番組が一つの結論を目指して構成されている以上、
情報の選択は必然的に偏る。
つまり、
偏向は「誰かの悪意」ではなく、
「分かりやすさを優先する構造」から生まれる
と言える。
メディアが信頼を取り戻すために必要なこと
皮肉なことに、メディアが信頼を失った最大の理由は、
「分かりやすく説明しようとしすぎたこと」かもしれない。
本来、現実は、
- 分かりにくく
- 意見が割れ
- 不確実性を含む
ものである。
それをそのまま伝えることは、視聴率的には不利かもしれない。
しかし、複雑さを引き受ける姿勢こそが、信頼の前提条件でもある。
おわりに――情報との距離をどう取るか
ワイドショー的な報道に違和感を覚えること自体は、
特別な知性の証明ではない。
それは単に、
「考える余地が奪われている」
ことへの自然な反応
だ。
メディアを完全に拒絶する必要はない。
しかし、結論があまりにも滑らかに提示されるときほど、一歩引いて考える。
その距離感こそが、
情報過多の時代において個人が持ちうる、最も現実的な防御なのかもしれない。
