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マルクス・アウレリウス(マルクス・アウレーリウス)

マルクス・アウレリウス(マルクス・アウレーリウス)は、121年から180年に生きていたローマ皇帝だ。

ストア哲学に造詣が深く、「哲人皇帝」もしくは「哲人王」とも言われる。また、「五賢帝」の最後の一人としても知られる。

マルクス・アウレリウスの哲学者としての思想自体には際立った独自性は見られないものの、彼が残した『自省録』に残された力強いメッセージに多くの人が心を動かされる。

マルクス・アウレリウスの人生

マルクス・アウレリウスの生まれ

マルクス・アウレリウスは、正確には「マルクス・アウレリウス・アントニウス・アウグストゥス」という名前だが、実はこの名前はローマ皇帝に即位してから名乗ったものだ。

マルクス・アウレリウスは、121年にローマで生まれたが、その時の名前は「マルクス・アンニウス・ウェルス」だった。

マルクスが3歳かそこらの時、父のマルクス・アンニウス・ウェルス3世が亡くなる。

父が死んだ後、マルクスは母のルキッラと祖父に育てられたという。

家で何人もの家庭教師をつけられ様々な教育を施されたが、その中でも特に関心を示したのが哲学だったのだ。

マルクスに哲学を教えたのはディオグネトゥスという人物だ。このディオグネトゥスに師事したマルクスは、ストア哲学に目覚めることになる。

後に、『自省録』で、マルクスは公立学校に行かなかったことや、家庭教師をつけられたことについて言及している。

ローマ皇帝に即位

マルクスがローマ皇帝に即位したのは161年。マルクスが40歳前後のときである。

即位までには、複雑な経緯があった。

138年、当時のローマ皇帝ハドリアヌスは、マルクスの叔父アウレリウス・アントニヌスを自らの皇嗣に指名し、そしてマルクスともう一人の少年ルキウス・ウェルスを養子にするように命じた。

その年、ハドリアヌスは死去、そしてアウレリウス・アントニヌスが肯定に即位する。そして、皇帝に即位したアウレリウス・アントニヌスは、マルクスに対して、「アエリウス・アウレリウス・ウェルス・カエサル」という名を贈ったのである。

この名前のうち「カエサル」は、皇帝の後継者を示す称号として使われていたようだ。つまり、この時からマルクスは次の皇帝になることが宿命づけられていたのである。

マルクスは、クアエストル(財務官)やコンスル(執政官)として公務に励み、皇帝アントニヌスを支えた。

そして、145年、皇帝の娘ファウスティナを結婚する。

161年、皇帝アントニヌスが死去すると、当然ながらマルクスは次期皇帝として就任することが期待された。

しかし、マルクスは、皇帝に即位することに難渋を示した。どうやら、マルクスは、皇帝としてローマ帝国に君臨するよりも、読書などをして哲学の修養に励むことを望んでいたようだ。

皇帝となり「自分に読書がもはや許されないことになってしまった」苦しみを『自省録』で吐露している。

マルクスは、結局、義兄弟であるルキウス・ウェルスと共に共同皇帝となることを条件に皇帝に就任することとなった。

この共同皇帝という体制は、ローマ帝国史上初めてのことであった。

ローマ皇帝としての治世